EMで育てて食べて /

禅寺丸柿は、台風16号Mindulle の強風の中を落ちずに頑張って呉れました

2021年10月6日(水)

今年は草茫々の中、6つ位結実しましたが、収穫はこの2つだけ。後一つはヒヨちゃんに突っつかれて真っ赤に熟して落ちてしまいました。この二つの柿は、台風16号Mindulle の前は未だ青っぽいオレンジ色で粉が吹いていましたが、今朝収穫したら、意外にも艶々とした皮になっていました。

私が育った家で祖母が丹念に世話をしていた柿の実に見た目は似ています。果物と言えば林檎、叩き売りのバナナ、桃、西瓜、葡萄位しかなかった中で町の八百屋さんでは柿が出ているのを見た事が無かったですね。柿は自分の家で採るものと思われていたのかなぁ。果物と言うよりは大事な食糧、見たいな感覚がありました。

前の野原で草野球をしていた少年から青年になる位の男の子が柿泥棒に来たり、と当時の子達の夢は美味しいものじゃなくて、先ずお腹一杯食べる事だったのでしょうね。

 


台風で倒された秋桜も茎から根っこを出して起き上がって来ました。新しい花は色が濃いですね。秋桜は風に揺れる、見た目には弱弱しい花ですが、どうして中々強かです。

我が庭の様な狭い処では背の高い秋桜が倒れると、背丈分の地面が占領され、根っこを出して更に広がって行くんですよね。可憐な花ですが、植物の持つしたたかさには手を焼きます。

 

 

 

 

 

観天望気

最低気温は5時台の20度台、最高気温は10時台の27度台で後は下り坂です。お天気は晴れで巣rが、夕方からは曇り、処によっては雨の予報も出ています。これは前線が下がって来ているんですね。前線が更になんかするとこの町でも最低気温が18度とかになりますよ。6時台までは南西の風ですが、後2-3時間で北寄りの風となります。風力は午前中は3-4mですが、午後には7m程度吹きます。

10日間天気予報では今日から”一時雨”が始まり日曜ぐらいまで続く様です。12-14日の雨マークは消えました。

 

日別海面水温

 

 

27度水域が凄い勢いでなんかして行きますね。未だ九州地方には残っていますが、引っ張られる様に切れ込みが出来ています。

台風シーズンは終わりにしようよ~。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3時、猫の腹時計は夏のままで3時にトラ子がミュン、ミュンと言う鳴き声で目が覚めました。薄暗闇の中、猫達は皆起きています。カリカリを補充し、私は二度寝で、起きたのは5時少し前でした。部屋には福とタイガーさんは居なくて、うめとトラ子が…残っていたのか、帰って来たのか…いました。

二匹にジュレを掛けたご飯を上げて、暫くすると福が戻って来ました。

写真はウルウルオメメのトラ子です。中々写真に撮らせて貰えない甘え顔です。『俺、雄猫だからさ~。』

 

 

 

毎朝一番に聞く鳥は百舌鳥になりましたねぇ。季節が変っているのを感じます。二十四節気では旧暦九月の初めに寒露で、グレゴリオ暦では明後日の10月8日になります。次の二十四節気の九月下旬の霜降は10月の24日頃です。

 

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落語に出て来る堀之内妙法寺のお会式も同じ頃なのかな?写真の池上本門寺のお会式は10月11-13日らしいです。私の生まれた町はお祖師様から歩いて1時間位ですが、万灯が回って来ていました。当時は街路灯も殆ど無く、商店の灯だけが遅い店で8時頃までついていた昔、真っ暗な中にホンワリ光る白やピンクの万灯はそれは見事なものでした。

道路も、大きな道路以外は勿論舗装されていません。屈強なる男の人が太棹をかつぎ、歩く度に灯の付いた万灯が揺れます。大勢の信者さんの叩くうちわ太鼓が近付いて来ると、綿入れ半纏を着た子供達が飛び出して見に行ったものです。

今では考えられない、真っ暗闇の都会の夜に花のように揺れる輝く万灯は宗教に関係なく、子供達の心をとらえていました。信者さんの営む大きな商店には必ず万灯は立ち寄ります。お会式、万灯は子供達にとってはお祭りの一つでした。

お祭りではありませんが、寒くなった頃、青バス通り(現在の環七)にはうちわ太鼓を持って白装束の人達がお祖師様を目指して速足で歩いていました。

 

 

 

さて、今日も福は廊下の新聞紙で温もっています。そしてお昼ごろには『暑いよ~!』、とフローリングの上で長々と寝そべるのでしょうね。夕方、急にお腹が空いて…の毎日です。

 

数字の上での温度は分かりませんが、今朝、蜂蜜が少し硬くなっていました。舌にのせると、ザラザラした感触が舌に伝わって来ます。数字の上では夏に近いけれど、何かがまた一歩進んでいますね。

 

 

ヘリからF35Bを艦載できるように作り替えられたいづも。

生で見たらさぞかし迫力でしょうね。敬礼したくなる、と思いますよ。

幼児の頃、叔父は社会人になりたてで戦後の日本は一歩社会主義へと足を踏み出していた感がありましたが、選挙では社会党を応援していたかに見えた叔父も私に”敬礼!”、を教えていましたねぇ。表面的には時代の流れに沿っている様に見えても、家の中には天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下のモノクロ写真が飾ってありました。

私の年代は、周りの大人にも復員軍人も多く、日本に対する気概も私の年代とは全く違う、ピン!と筋の通ったものがありました。それが崩れたのは豊かな物とTVです。勿論、当時はそんな事は思わずにどちらにもおぼれていました。

戦後の娯楽が無い時代は映画の天国でした。時代劇は長谷川和夫の主演のものを祖母と明大前に、現代ものは叔父に連れられて笹塚へ行きました。笹塚の映画館で”太平洋の嵐”とか日本書紀の内容を映画にしたものとか見に行きました。

ディズニーものやアメリカ映画が2-3年遅れで来る映画館とは別の映画館でしたね。事情は詳しく分からなかったのですが、全ての日本映画にはGHQの検閲が入っていたのでしょうね。太平洋の嵐の最後のシーンでは艦橋の柱にロープで身を縛り、艦と一緒に沈んで行った艦長さんと副艦長さんのシーンは今でも脳裏に刻まれています。きっとミッドウェイの戦いだったのでしょう。何か戦争の悲惨さの裏に、日本人魂みたいなものを子供ながらに感じました。表面的には別のものを訴えながらも制作者の真の意図が伝わって来たのでしょう。

隣町は眼医者さんも、練り物屋さんも和菓子屋さんもあり、15-20分位歩いて行く途中は楽しかったですね。町で”お行儀悪い”事として絶対に食べ歩きを許さなかった気取り屋の叔母が練り物だけは熱々の揚げたてだから、と許可して呉れたのは、ご自分が食べたかったからなのでしょうね(笑)。揚げたてのさつま揚げを食事時以外に食べるのは、とても素敵な体験でした。勿論、口にチャックで誰にも言いませんでしたよ。

 

 

 

9時過ぎ、Sさんに赤い羽根の募金を届けて帰って来ると、あれっ!?西隣さんの雨戸が空いている!Kさんがいらしていました。おしゃべりが始まって私は何もせずにお喋り専門で、Kさんは手を動かしながらお喋りしていたのを福がずっと遠くから見ていました。

メイクインを5畝の外側のレンガギリギリに植えてみました。

EMさんから電話があって、巨峰が出荷の際に生育不良が見つかり、キャンセルになってしまいました。残りは林檎だけ…頼む!ちゃんと届いて。

二週間後に西隣さんがいらしたら、我が家の里芋で芋煮をする事にしました。

皐月をプランターに植え替えました。枝が物凄く長くなって根っ子が殆ど無く、早く気付いて上げれば良かったなぁ。これでは地上部が少なくても葉数が少なくても何も言えない。只、其のままにして置くと気付かずに枝を切ってしまう可能性もあり、今回は深型プランターを利用して植え替えました。

午後からは雲が出て、風が気持ち良い、程よい気温になりました。芍薬のジャパニーズドールとオリエンタルゴールド、氷点の今年咲かなかった株、氷点大株の鉢を里芋畝のプランターのあった処へ移しました。

 

つけるディップはマヨネーズ+柚子胡椒でも美味しいよ。

時々若い人の、時に破茶無茶な料理が面白い。刺激になりますよね。

 

蓮根餅を作って食べました。サクラエビをこのために勝った筈なのに冷蔵庫の中にみつからない。焼き終わってから乾物の缶だ!やはりあった。明日少し残っているので、サクラエビと青のりを入れて焼いてみよう。

 

 

一日見ないとドンドン姿が変わる野菜達。本当ですよね。島の自然農さんの日々の記録です。

片や、待てども待てども発芽してこない種。新しいのに…。。

 

。。。

 

 

 

 

 

投稿者

rwu6117@gmail.com

コメント

市東真由美
2021年10月6日 @ 2:54 PM

武先生こんにちは🌞
そうですね、私も48年生きていると世の中の移り変わりもわかるようなって来ますね。御宿も昔は朝市は車も通れないほど人で溢れていて、活気がありました。今は店も減り、病院も減り過疎化が進んでますね。
びっくりしたのは寮のあった赤羽です。数年前、卒業後20年ぶりくらいにいったら、何もかもが変わっていました。良く行っていた教会は時が止まったかの様に佇んでいました。
映画、風と共に去りぬが戦前は作られたとしてその様な国と戦って勝てるわけがないよねと母がよく言っています。
わたしは何歳まで生きるのかなぁ



    2021年10月6日 @ 7:33 PM

    市東さん、今晩は~!

    変わって行くのって面白いですよね。私が30数年前に家を建てるので
    通っていた頃は岩瀬酒造さんの前の道だって舗装はしていなかった。
    その頃の朝市は凄かった。車も徐行していた…と言うより渋滞状態でした。

    色々な処から農家の小母ちゃん達が来て、一杯おまけして貰った懐かしい
    思い出があります。町も呼吸をしているから、吐いたり吸ったりしているん
    じゃない。過疎化と捉える必要は無いんじゃないかな。

    人の少ない処にゆったりと暮らしている人達も結構いるんですよね。
    皆がわぁ~ッとにぎわった時を覚えていて、昔は良かったなんて
    思っていたら、外から人は来ないですよ。今を良くするにはづしたら
    好いかなぁ、って考えなくっちゃ。寂れる様にしたのは住んでいる
    人達なんですよ。

    国力と言う意味ではお母さまの仰る通りかも知れないけれど、米軍が
    嘗ての日本を、日本の軍隊のやり方を今も士官学校で教えている。
    その位、脅威だった。硫黄島では米軍最強と言われた舞台が全滅
    寸前になった。戦った同士はある種の尊敬に似たものを持っているよ。

    私は戦ったわけでも、大人でもなく、未だこの世に生まれてなかったから
    其処に関しては何も言えない。その場で耐え抜いて生き延びて来た人達は
    凄い、と思う。色々な事があったと思うよ。他人の嫌な面を見たり、素晴らしい
    面を見たり、と。

    何も言えなかった、言わなかった国民が居たから負けたのかもね。そう言う
    時代じゃなかった、と言うのは、確かにそうだけど、国に全てを任せて
    国民が参画しない事を怠った、とも云えるんじゃないかな。朝日新聞に
    煽られたり、後になったら何とでも批判は出来るよね。私の言っている事も
    勿論、批判だけど。だから、言わずに堪えていた精神力の強さでは今の
    人間は太刀打ちできないですね。



市東真由美
2021年10月6日 @ 9:54 PM

返信ありがとうございます!
何はともあれ、戦争を経験した人達は底力が付いている、ベースとして。うちのおばあさんの弟は入院していたのを退院させられ船に乗せられフィリピンの地へ向かう途中に船ごと沈められ戦死したらしいです。おばあさんが靖国神社へ行った写真を見ました。私たちには想像もつかない程の経験かもしれませんね。



    2021年10月7日 @ 6:10 AM

    ご返信ありがとうございます。

    ほぼ全ての家庭で起きた不幸せがあったのですよね。でも、私の世代になると
    豊かな物と情報で煽られて、戦争で亡くなった人を想うどころか、戦争そのものを
    全面的に否定するような、それも表面的な教育をされたかな、と思います。

    言葉ではいくらでも言えるけれど、そこには戦争を体験した人達の数えきれない
    思いに気付く事は少ないですね。国力の違いは私達より軍部の中枢にいた人達の
    方が分かっていたけれど、遣らざるを得なかったのも理解出来るし、当時の
    列強に支配されていた国々の事も知識以上のものとしてとらえる事はなかった
    一般庶民とはかなり考えにも差があったでしょうね。

    物事には常にダークサイドとブライトサイドがあるから、F.ルーズベルトが
    コミンテルンに操られ、また日本でも近衛内閣がかなり共産主義的な考えに
    侵されていたり、人の欲や主義が入ると、他人である一般庶民の事はあまり
    考えなくなってしまうのかなぁ…とも思うし。でも、良くない事と言う一言で
    スパッと切ってはいけない、と言う事を私は20代半ばを過ぎた頃に体験し、
    それが本当の歴史を自分で調べる、と言う事に繋がりましたね。

    難しい問題と言う言葉で片づけると思考停止に陥るから、そうは表現したくないです。



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